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| 船場のまちづくり 歴史ある都心で新たな価値「共創」 |
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4月に大阪・関西万博が開幕し、今後、会場の夢洲においては大阪IRや万博跡地利用など観光集積が着々と進められていく。また都心部においても、先駆けとなった「うめきた」をはじめ、「新大阪周辺地域」「大阪城東部地区」といった将来の大阪をけん引する大型プロジェクトへの期待が高まっている。 |
| 原点は職住近接 ストリートに賑わい取り戻す |
■今回は大阪市都心部のまちづくりをテーマにお話をお聞かせください。 |
25年にわたって、大阪の都心である船場のまちづくりに関わっています。何より、船場・島之内は私の故郷です。 |
■船場の繊維問屋から総合商社へと成長を遂げた伊藤忠商事や丸紅も、10年ほど前に転出しました。 |
さかのぼると、90年代のバブル崩壊により、船場では特に卸問屋の倒産が相次ぎ、空洞化が急速に進みました。立ち退いた店舗のあとには、空き地が目立ち、いたるところにコインパーキングがあるまちになっていましたね。 |
■住む人が少ないうえに、ビジネス街としての活力も失った。 |
もともと船場は職住近接のまちでした。商家の表に店舗を構え、2階や裏にはたくさんの丁稚さんらが生活していた。大正時代の末から昭和初期までは居住人口が約6万人とピークを迎えた。それが戦後に構造ががらりと変わった。焼け跡にオフィスビルが建てられるなかで、市内周辺区や郊外に住まう人が増えた結果、都心は業務地区に純化しました。結果、本当に人が住まないまちになった。25年〜30年前には、人口は約4千人まで落ち込みました。 |
■その時期から、先生はまちづくりに関わり始めた。 |
私はまず、空洞化した中心業務地区である船場を「『住まう』『働く』の近接した都心に戻そう」と提唱するとともに、「できるだけ多くの人に居住してほしい」との思いで大阪市の住宅政策や都市計画などにも携わってきました。 |
■職住近接だった船場の復活をめざしたと。 |
折よく、揺り戻しが起き始めます。空洞化した問屋街にマンションやホテルが建つようになり、2005年前後からは大規模ビルの跡地などにタワーマンションがどんどん建設され、ホテルも数多くでき、人口は急回復。文字通り、まちは様変わりしました。 |
■スーパーで買い物する家族連れの姿も多くみられるなど、かつてのビジネスセンターのイメージではありません。 |
船場のまちづくりにおいては、「中心業務地区(Central Business District)」から「都心共創地区(Central Co―creative District)」に転換していこうとずっと呼びかけています。 |
■具体的な取組みについては。 |
2013年に御堂筋において新しいまちなみの誘導ルールを策定した際には、ストリートに面するビルの低層部には店舗や飲食店等、にぎわい創出につながる施設の導入が望ましいと明示しました。同じく船場においても、建物の低層部のデザインがこれから重要になってきます。また、このエリアには公園もほとんどないので、魅力ある都心づくりに向けて、各ビルの公開空地などさまざまな場所に地域の人たちが集い、楽しめる場所を増やしたいですね。 |
| 東西軸 楽しみな中央線沿線 |
■そのほか関心を持たれている都心エリアはありますか。 |
夢洲第2期区域をはじめベイエリアに新たな観光集積が生まれ、新大阪周辺地域や大阪城東部地区など大阪の将来に向けた新たな開発がこれから順次進んでいく。いっぽうで既存の市街地や都心部をどうしていくのか。そこが大きな課題だと認識しています。 |
■東西軸の重要性はバブル時代から指摘されています。 |
もっとも、東西軸を構築する動きはこれまでも何度もありました。戦後復興計画で示された東西の広路が、中央大通りとして整備されます。さらに80年代から90年代にかけて、東西軸においては、西の拠点として南港の咲洲コスモスクエアや弁天町、東の拠点としてOBP(大阪ビジネスパーク)、鶴見緑地がそれぞれ整備されました。しかし、東と西の拠点という認識は定着することはなかったように思います。それが大阪・関西万博を契機に「大阪は今後、東西軸で発展をみなければいけない」「東西の拠点が大事だ」などという提言がなされるようになりました。数十年以上前から言われ続けた構想が、夢洲や大阪城東部地区の整備で再度、注目されているかたちです。 |
| 万博イヤーと昭和100年 今こそ大阪の将来像示し、共有を |
■歴史は繰り返されている。 |
まちというものは新陳代謝するので、絶えず次の拠点をつくり、次の提案をしていかなければいけない。ただ同時に、過去の経緯を知ることも極めて重要です。反省を踏まえ、次のプロジェクトに取り組む姿勢が強く求められます。 |
■情報はあふれていますが、歴史的経緯には目が向きにくい。 |
たとえば大阪では、戦後復興期に堺泉北臨海コンビナートを整備し、あわせて住宅地として千里と泉北に巨大なニュータウンを開発しました。復興にむけて新しい産業を興すことと、都心部における過密を解消することが、当時の課題です。いっぽう、大阪市内の過密緩和や物流の効率化をめざし、卸問屋が事業を共同化し、東大阪や北摂などの郊外にまちごと、あるいは業態ごと集団移転する動きもみられました。 |
■ただし、高度成長期にはドーナツ化現象を生み、大阪市の人口は減少に転じ、船場も大きく影響を受けた。 |
分かりやすく言えば、大阪平野すべてが市街地のような圏域になってしまって、本来、都心が持っていた中枢機能が弱まり、「大阪らしさ」も失われていきました。 |
■今年は昭和100年で、大大阪から100年という節目の年でもあります。 |
なおかつ、大阪・関西万博が開催され、まさに歴史的な年と位置付けられます。大阪の将来像を考えるうえで非常に大切な時期であることを改めて強調しておきたい。万博開催の2025年をターゲットイヤーに、さまざまなプロジェクトが遂行されましたが、私はその先の議論は依然、不十分だと思っています。 |
| 「大阪らしさ」の精神 |
■今は観光振興ばかりが強調されているように感じます。 |
やはり、根幹的に大都市というのは「人々が交流する場」です。絶えず、多様な地域から人々が集まり、出会うことで新しいアイデアやビジネス、新たな価値を生み出す。それを繰り返す。そして、その代表的な場所が船場でした。 |
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