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大阪府特別顧問・大阪市特別顧問(万博担当)橋爪紳也大阪公立大学特別教授
 【2025年07月28日掲載】

船場のまちづくり

歴史ある都心で新たな価値「共創」


 4月に大阪・関西万博が開幕し、今後、会場の夢洲においては大阪IRや万博跡地利用など観光集積が着々と進められていく。また都心部においても、先駆けとなった「うめきた」をはじめ、「新大阪周辺地域」「大阪城東部地区」といった将来の大阪をけん引する大型プロジェクトへの期待が高まっている。 
 そのようななか、かつて大阪の繁栄を支えた歴史的中心市街地はこれからどのような役割を担うべきなのか。長年にわたり、「船場のまちづくり」に取り組んできた橋爪紳也・大阪公立大学特別教授に聞いた。

   原点は職住近接 ストリートに賑わい取り戻す

■今回は大阪市都心部のまちづくりをテーマにお話をお聞かせください。

 25年にわたって、大阪の都心である船場のまちづくりに関わっています。何より、船場・島之内は私の故郷です。
 船場は近世における城下町建設にさかのぼる歴史ある都心であり、江戸時代には各地から商人や職人を集め、中之島に各藩の蔵屋敷が立ち並び、北浜には米市場や金相場会所が開設されました。近代にあっては、北浜界隈が「大阪のウオール街」と呼ばれる金融と先物取引の中心となり、また綿関連の取引所などもあり、さまざまなモノの値段がここで定まっていました。いっぽう大正時代に大阪が商業都市から全国一の工業都市としても発展を遂げて以降、戦後復興から高度経済成長期まで、船場エリアは常に西日本における経済活動の中枢でした。
 しかし近年になり、かつて船場に本社を置いていた大企業が中之島や梅田、あるいは東京等に次々と移転し、大阪を代表する中心業務地区としての機能もめっきり衰えてしまいました。もはやさまざまな物事の価値はここでは決まらなくなった。

■船場の繊維問屋から総合商社へと成長を遂げた伊藤忠商事や丸紅も、10年ほど前に転出しました。

 さかのぼると、90年代のバブル崩壊により、船場では特に卸問屋の倒産が相次ぎ、空洞化が急速に進みました。立ち退いた店舗のあとには、空き地が目立ち、いたるところにコインパーキングがあるまちになっていましたね。

■住む人が少ないうえに、ビジネス街としての活力も失った。

 もともと船場は職住近接のまちでした。商家の表に店舗を構え、2階や裏にはたくさんの丁稚さんらが生活していた。大正時代の末から昭和初期までは居住人口が約6万人とピークを迎えた。それが戦後に構造ががらりと変わった。焼け跡にオフィスビルが建てられるなかで、市内周辺区や郊外に住まう人が増えた結果、都心は業務地区に純化しました。結果、本当に人が住まないまちになった。25年〜30年前には、人口は約4千人まで落ち込みました。

■その時期から、先生はまちづくりに関わり始めた。

私はまず、空洞化した中心業務地区である船場を「『住まう』『働く』の近接した都心に戻そう」と提唱するとともに、「できるだけ多くの人に居住してほしい」との思いで大阪市の住宅政策や都市計画などにも携わってきました。

■職住近接だった船場の復活をめざしたと。

 折よく、揺り戻しが起き始めます。空洞化した問屋街にマンションやホテルが建つようになり、2005年前後からは大規模ビルの跡地などにタワーマンションがどんどん建設され、ホテルも数多くでき、人口は急回復。文字通り、まちは様変わりしました。

■スーパーで買い物する家族連れの姿も多くみられるなど、かつてのビジネスセンターのイメージではありません。

 船場のまちづくりにおいては、「中心業務地区(Central Business District)」から「都心共創地区(Central Co―creative District)」に転換していこうとずっと呼びかけています。
 確かに、船場という都心に多くの人が戻ってきてはいますが、まちの賑わいという点ではいかがなものかと。やはりタワーマンションの場合、すべてが住居系になるため、現代的な町屋にはなかなかならず、路面がちょっと寂しいですよね。かつて船場には繊維や小間物といった問屋街がストリートごとにありました。町屋が道に面してずらっと並び、活気にあふれていた。 
 そこで、私はもう一度、道に面して賑やかな場所をつくるべきだと言っています。

■具体的な取組みについては。

 2013年に御堂筋において新しいまちなみの誘導ルールを策定した際には、ストリートに面するビルの低層部には店舗や飲食店等、にぎわい創出につながる施設の導入が望ましいと明示しました。同じく船場においても、建物の低層部のデザインがこれから重要になってきます。また、このエリアには公園もほとんどないので、魅力ある都心づくりに向けて、各ビルの公開空地などさまざまな場所に地域の人たちが集い、楽しめる場所を増やしたいですね。

   東西軸 楽しみな中央線沿線

■そのほか関心を持たれている都心エリアはありますか。

 夢洲第2期区域をはじめベイエリアに新たな観光集積が生まれ、新大阪周辺地域や大阪城東部地区など大阪の将来に向けた新たな開発がこれから順次進んでいく。いっぽうで既存の市街地や都心部をどうしていくのか。そこが大きな課題だと認識しています。
 そのような観点から、私は東西軸を走行する大阪メトロ中央線沿線、なかでもJR環状線の内側に位置する駅周辺に注目しています。具体的に駅名を挙げると「森ノ宮」「谷町四丁目」「堺筋本町」「本町」「阿波座」「九条」「弁天町」ですね。近い将来、面白い動きがあるのではないかと楽しみにしています。
 とりわけ、なにわ筋線の開業(2031年予定)により、「西本町駅(仮称)」に近接する阿波座は結節点(大阪メトロ・JR・南海)として期待されます。また、京阪中之島線延伸が実現すれば、九条駅辺りの印象も随分変わってくるはずです。さらに東側の大阪城東部地区、さらには学研都市線を結ぶエリアに新たな魅力が加われば、東西軸が新たな大阪を示すことになるかと思います。

■東西軸の重要性はバブル時代から指摘されています。

 もっとも、東西軸を構築する動きはこれまでも何度もありました。戦後復興計画で示された東西の広路が、中央大通りとして整備されます。さらに80年代から90年代にかけて、東西軸においては、西の拠点として南港の咲洲コスモスクエアや弁天町、東の拠点としてOBP(大阪ビジネスパーク)、鶴見緑地がそれぞれ整備されました。しかし、東と西の拠点という認識は定着することはなかったように思います。それが大阪・関西万博を契機に「大阪は今後、東西軸で発展をみなければいけない」「東西の拠点が大事だ」などという提言がなされるようになりました。数十年以上前から言われ続けた構想が、夢洲や大阪城東部地区の整備で再度、注目されているかたちです。

   万博イヤーと昭和100年    今こそ大阪の将来像示し、共有を

■歴史は繰り返されている。

 まちというものは新陳代謝するので、絶えず次の拠点をつくり、次の提案をしていかなければいけない。ただ同時に、過去の経緯を知ることも極めて重要です。反省を踏まえ、次のプロジェクトに取り組む姿勢が強く求められます。

■情報はあふれていますが、歴史的経緯には目が向きにくい。

 たとえば大阪では、戦後復興期に堺泉北臨海コンビナートを整備し、あわせて住宅地として千里と泉北に巨大なニュータウンを開発しました。復興にむけて新しい産業を興すことと、都心部における過密を解消することが、当時の課題です。いっぽう、大阪市内の過密緩和や物流の効率化をめざし、卸問屋が事業を共同化し、東大阪や北摂などの郊外にまちごと、あるいは業態ごと集団移転する動きもみられました。
 これは戦前にあっても同様で、1925年、第7代大阪市長の関一は第2次市域拡張を行い、いわゆる「大大阪」が誕生します。当時も都心部の過密問題が深刻化しており、関市長は分散化を図るため、農村地帯を含む周辺町村を合併。農地や未利用地を新たな工場の用地や住宅地として確保し都市化を進めました。
 すなわち、人口が増え続け、経済成長が続く時代においては、絶えずドーナツ的に郊外を開発し都市機能を分散してきたわけです。

■ただし、高度成長期にはドーナツ化現象を生み、大阪市の人口は減少に転じ、船場も大きく影響を受けた。

 分かりやすく言えば、大阪平野すべてが市街地のような圏域になってしまって、本来、都心が持っていた中枢機能が弱まり、「大阪らしさ」も失われていきました。
 もっとも、大阪市では現在、空洞化の揺り戻しが起きていて、前述した船場地区はもとより、都心六区(北区、福島区、中央区、西区、天王寺区、浪速区)においては、タワーマンションの爆発的増加とともに、人口も急増しています。それに伴い、大阪市全体の人口も増えています。 
 とはいえ、日本全体では人口減少局面を迎えており、大阪市も長期的には減少に転じることが予想されるので、強い危機感を持ち、今後どうするのかを考えないといけない。少々極端かも知れませんが、過去100年間で伸び切った郊外を縮小するような選択肢も考えられるのではないかと。

■今年は昭和100年で、大大阪から100年という節目の年でもあります。

 なおかつ、大阪・関西万博が開催され、まさに歴史的な年と位置付けられます。大阪の将来像を考えるうえで非常に大切な時期であることを改めて強調しておきたい。万博開催の2025年をターゲットイヤーに、さまざまなプロジェクトが遂行されましたが、私はその先の議論は依然、不十分だと思っています。
 講演会などで常々申し上げているのが、大阪は世界のどの都市をベンチマークに設定し、どの領域における都市間競争に挑むのかということ。そのビジョンが必要です。さらにその先にどのような圏域をめざすのかを明確に語り、目標を共有して前に進まないといけません。

   「大阪らしさ」の精神

■今は観光振興ばかりが強調されているように感じます。

 

 やはり、根幹的に大都市というのは「人々が交流する場」です。絶えず、多様な地域から人々が集まり、出会うことで新しいアイデアやビジネス、新たな価値を生み出す。それを繰り返す。そして、その代表的な場所が船場でした。
 かつて船場を拠点に大活躍した近江商人は、大阪に「三方よし」という価値観を持ち込み、それは大阪商人に引き継がれ、「大阪らしさ」として根付きました。要するに、「大阪らしさ」というのは多様な地域から来た人たちが共につくり上げてきたものなのです。その精神を忘れてはいけない。 
 私が船場のまちづくりにおいて「共創」を掲げる理由です。

 


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